No.30 塙保己一(令和4年10月)

「ヘレン・ケラーが尊敬した人物」
「六万冊の本を暗記した盲目の天才」


【はじめに】
 皆様はヘレン・ケラーという女性をご存じでしょうか。
彼女は、目も見えず、耳も聞こえないという障がいを負いながらも、生涯を教育・福祉・世界平和に尽力したことで世界的に知られた女性です。戦前戦後を通じて3度来日し、各地で講演を行い、日本の障がい者の福祉向上を訴えました。その努力によって、戦後の日本では、「身体障害者福祉法」が制定されました。
「身体障害者福祉法」は、日本国の障がい者に対する初めての法律で、援助など、障がい者が積極的に社会活動に参加できるようになりました。 
そのような彼女が、昭和十二年(1937)に初来日した際、渋谷の温故学会を訪れました。この時、彼女は母親から「日本の塙(はなわ)保己一(ほきいち)先生はあなたの人生の目標となる方ですよ。」と教えられたことを語りました。また、埼玉県で開かれた講演会では、「この埼玉ゆかりのハナワ・ホキイチ先生を目標に頑張ることができ〝今の私〟があるのです」と述べられました。
障がい者に対する法律がない時代に生まれ、世界に影響を与えたヘレン・ケラーの目標であり、心の支えであった「塙保己一」とはどのような人物だったのでしょうか。
本日は、塙保己一の生涯についてお話し、塙保己一がなぜ尊敬されたのかについて考えたいと思います。なお、塙保己一は幼少期から何度も名前を変更していますが、混乱を避けるため、保己一または塙保己一で統一したいと思います。

【塙保己一の生涯】
 保己一は江戸時代(1746~1821年)を生きた人で、武蔵(むさしの)国(くに)(埼玉県)保(ほ)木野村(きのむら)に生まれました。
幼少期より草木の花を好む子どもでした。五歳のときより肝臓(かんぞう)を病み、七歳にいたって失明してしまいます。しかし、失明してからも、花の咲く草木を植えて、人がそれを見て喜ぶのを楽しみにしていました。このように、保己一は情緒豊かな少年でした。
 保己一は、母から聞いた物語を順序たがわずに覚えたそうです。また、父や友人が保己一の手に「いろは」を書いてくれたことで、保己一はそれを習い覚えることができました。しかし、十二歳になると、保己一は母を失ってしまいます。そして、保己一は失意のなか、江戸に出て仕事を得たいと考えるようになりました。大切な家族が亡くなったことで、自身の将来について悩んだのかもしれません。
父から許しを得た保己一は、十五歳になると、江戸へ出て雨(あめ)富(とみ)検校(けんぎょう)の当道座(とうどうざ)に入門しました。江戸時代の当道座は、幕府によって置かれた盲人芸能者の同業者団体で、琴・ハリ治療・あんま(マッサージ) ・座頭金(金貸し)などを生業(なりわい)としていました。検校(けんぎょう)は盲人芸能者をまとめる役に当たります。
 保己一も一人でお金を稼げるようになるため、ここで技術を習得しようと努めたのです。盲目であるために文字が見えないので、保己一のように学問を好む人は当道座にはいません。そのため、保己一は当道座では変わり者だったかもしれません。しかし、保己一は暇の間、歌の先生のもとへ弟子入りして好きな勉強を続けました。
年齢は定かではありませんが、若かりしときより、保己一は集中力をあげるために、日に百巻の『般若心経』を唱えたと伝わっています。そして、保己一の実家に伝えられる『般若心経誦(はんにゃしんぎょうどくじゅ)巻数(かんすう)覚帳(かくちょう)』には、三十四歳から七十六歳までの読んだ『般若心経』の回数が「二百一万八千五百」であったと記録されています。この回数からも保己一の勉強に対する向上心が伺えます。
さて、保己一は当道座の先輩達から琴・ハリ・あんまなどの技術を学びました。記憶力が良いのでハリ、あんまの医学書はすぐに暗記ましたが、何年たってもこれらの技術を習得することができません。そして、保己一は技術が習得できない毎日に加え、座頭金の取り立ても上手くできなかったことに絶望し自殺を図りました。しかし、自殺直前で助けられました。
そのような保己一に対して、雨富検校は、「お前のやりたい道を進んでみるがよい。三年間、私がお前を養(やしな)おう。」といいました。保己一は雨富検校の恩情に感激し勉学の道を志しました。
 保己一は名のある先生方のもとで勉強し、いつしか保己一の名は広く知られるようになりました。そして、官職(盲官)に任命された保己一は、やがて位が上がって行き、三十八歳で検校になることができました。
 保己一は目が見えない自分に素晴らしい世界を見せてくれた書物に恩返しがしたいと思いました。そこで大名などの蔵には多くの書物が眠っているが、誰も手を付けず失われていく一方だと考え、日本全国に散らばっている貴重な書物を整理して読めるようにしようと考えました。この気の遠くなるような作業は、「世のため、後のために」という思いのもと四十年をかけて完成しました。保己一がまとめた『群書類従』には1276点の資料が収められていますが、誰でもこの貴重な資料を使って勉強でき、簡単に増やせるようにと版木で印刷して刊行しました。保己一の『群書類従』は日本の歴史を正しく伝えるために欠かせないものとして現代でも高く評価されています。
晩年の保己一は「総検校」という盲官の最高位に任命され、七十六歳で亡くなりました。

【おわりに】
 保己一の書庫には六万冊の本があったとされています。そして、保己一はこれらの内容をすべて暗記していた天才と言われます。しかし、本日お話したように、保己一は自殺を決意するほどに悩み、家族、雨富検校などの当道座の仲間、弟子入りした先生方など多くの人々に支えられて力をつけてきました。盲目で本が読めない保己一でしたが、保己一に人々が手を差し伸べたのは、『般若心経』の読経など、彼が必死に努力する姿に感動したからではないでしょか。つまり、保己一の天才は自らの努力と周りの助けによって得たものなのです。
 ヘレン・ケラーは、保己一が目標であり尊敬する人物であると語ったことを述べましたが、恐らく彼女もまた保己一の努力に感動した一人だったのではないでしょうか。そして、自身も保己一に習い努力を重ねたことで人々に尊敬され、世界的に評価される人物になったのではないでしょうか。
 皆様もやりたいことがあれば保己一のように挑戦してみてください。そして、〝障害〟にぶつかることがあれば、盲目でありながら『群書類従』を編さんした保己一を思い出し、人間の可能性を信じて乗り越えてください。