No.26 聖徳太子信仰(令和4年6月号)

「あまり知られていない聖徳太子のお話」
「なぜ聖徳太子を信仰するのか?」

【はじめに】
 皆さんは「歴史上の人物を挙げてください」と問われたら、誰を思い浮かべますか。真っ先に、有名な戦国武将のお名前が上がりそうですね。しかし「聖徳太子」も、教科書やテレビ番組などでよく取り上げられる方であり、「日本史の勉強は好まないけれど、聖徳太子の名前と顔は知っている」という方も多いのではないでしょうか。
 聖徳太子の功績としては、教科書でも取り上げられている「冠位十二階」や「十七条の憲法」の制定が広く知られていると思います。しかし、聖徳太子の功績はこれだけではなく、国史の編纂や遣隋使の派遣なども行なっていました。さらには、四天王寺や法隆寺を建立して仏教興隆に努めたことで、仏教者からも高く評価されています。やがて、これらの偉業に対する尊敬の念は信仰へと変わり、聖徳太子は「救世(ぐぜ)観音(かんのん)」という仏様であるとして、信仰の対象にもなりました。 
 では、聖徳太子はどのように信仰されていたのでしょうか。本日は、聖徳太子の生涯が記された『聖徳太子伝記』の内容を抜粋してご紹介すると共に、信仰対象としての聖徳太子について、考えてみたいと思います。

【聖徳太子伝記】
 敏達天皇が即位された最初の年のこと、間人(まひと)皇女は夢の中で金色の僧に出逢います。僧侶は「私は世を救うため、あなたの腹に宿りたいと思っております。」と述べられました。皇女は「あなたはどなた様でしょうか」と尋ねると、「救世の菩薩で、西方に住んでいます」とお答えになるのです。そして、皇女の許しを得ると僧侶は彼女の口の中へ入ります。
 夢から覚めた皇女が夢の内容を夫に伝えると、夫は「これはきっと吉夢である」と喜びました。ほどなくして皇女は身ごもり、十三か月後に聖徳太子を出産されたのです。その時、赤と黄色の光が西方より差し込み人々を照らしたとされています。
 『聖徳太子伝記』ではじめに語られるのは、太子の誕生についてです。太子の誕生は仏様の化身として描かれています。つまり、当時の人々にとって、太子を拝むことは仏様を拝むことであったといえるでしょう。

【情緒豊かな幼少期】
 『聖徳太子伝記』には、太子が三歳の頃の逸話も残されています。
 太子がご両親と付き人と共にお花見に行った時のことです。父君は桃と松の枝をそれぞれ手折って太子に見せ、「そもそも松も桃も共に祝いの物である。どちらも太子が気に入るものであろうが、どちらか良いと思うものを選びなさい」とおっしゃいました。すると太子は松の枝をとったので、「なぜ紅で香りの良い桃花をすてて、松の葉を選んだのか」と父君は尋ねられます。すると、太子は「桃花の色と香りは素晴らしいものですが、ただ一端に栄える物であって長く続くものではありません。松は千年までその色を変えず長寿の祝木なのです」とお答えになりました。父君はこれに感動して、太子を抱きしめるのです。
 確かに、「桃花」の華やかな美しさは多くの人の心を惹きつけますが、季節が変わると枯れて、見頃が終わってしまいます。対して、太子が選んだ「松」は、艶(つや)やかな花こそ見られずとも、年間を通じて葉を青々と繁(しげ)らせる様子から「長寿の縁起物」とされてきました。桃花のように、栄えたり衰えたりを繰り返す人の世の儚(はかな)さを「栄枯(えいこ)盛衰(せいすい)」といいます。太子は、幼い頃から情緒(じょうちょ)が豊かであったようです。このお話からは、一時的に大いに栄えることよりも、長く豊かに栄えることの素晴らしさを伺うことができます。

【君主であり、父でもある、用明天皇への真心】
 太子が十五歳になると、敏達天皇が崩御(ほうぎょ)され、父君が用明天皇として即位されました。しかし、その一年後の太子が十六歳の時、病に伏せてしまったのです。その日から太子は、衣帯(服)を着替えてくつろぐこともなく、父君が食事を召し上がらないときは、自分も食事を摂(と)りません。そして、父君が食事を召し上がる時に自分も食事を頂きました。
 このように太子は父君に心を寄せて、時には衣帯の上から袈裟を羽織り神仏に病の回復を願いました。しかし、定業の病であったため、父君は回復されることなく崩御されたのでした。
 このお話からは、君主であり父でもある用明天皇に対する太子の「真心」が伝わります。病に伏せる用明天皇に思いを寄せて、御身の回復を祈る姿は、君主に仕える役人としても、父を心配する子としても理想の姿だといえるでしょう。

【夫としての聖徳太子】
 太子が二十七歳のとき、膳(かしわでの)大姫(おおひめ)という女性と出逢います。すると、太子は「今まで女性に心惹かれることはなかったが、この娘は私の意にかなった女性である」とおっしゃいました。これを知った推古天皇は大いに喜び、膳大姫を太子の妻としました。妻を深く愛した太子は、後に我が身の幸せを語って「私が死ぬときはあなたと同じ墓に眠りたい」とおっしゃったそうです。そして、五十歳のとき最愛の妻と共に息を引き取りました。
 このお話からは、夫としての太子の姿を垣間見ることができます。妻を一途に愛した太子は、理想的な夫だったといえるでしょう。 

【聖徳太子と信仰】
『聖徳太子伝記』には、誕生のお話に見られる仏の化身としての姿や、桃花と松に見られる才能あふれる姿が描かれています。これらのお話からは、仏の力を持った特別な存在としての太子の姿が見てとれました。しかし、父である用明天皇の御身を心配し、妻を愛する姿からは、人間的でどこかなじみ深い印象を受けます。すなわち『聖徳太子伝記』は、信仰の対象でありながら、誰もが気兼ねなく接することができるという、太子の菩薩としての理想的な姿を伝えているのです。

【菩薩としての聖徳太子】
 本日の冒頭で、太子は「救世観音」の化身であると申し上げました。「観音(観世音菩薩)」は悟りを得ておりますが、絵や彫刻では装飾品を身に付けた姿で菩薩が表現されます。これは、あえて装飾品を身につけることで俗世に留まり、私たちを救おうとしてくださっているためです。
太子の「人間」としての姿が『聖徳太子伝記』に描かれたのも、私たちに親しみを生む為だったのではないでしょうか。そこには、読み手が「聖徳太子のような人になりたい」と感じ、より豊かな人生を歩む指針にしてほしいという願いが感じられます。
 皆様も、聖徳太子に手を合わせる時は、その偉業だけでなく、太子の生き方にも想いを馳せてみてください。そして、「太子のように生きたい」と願い、努力を積み重ねてゆけば、理想的な人物になることができるよう、きっと太子が導いてくださると思います。