「大仏山の伝説を語る」
「実はすごいところ大仏山!!」
【はじめに】
「大仏山幸福寺」は昭和五十七年に現在の場所にて落慶されました。 幸福寺の山号を「 大仏山」(大佛山)と号すのは、玉城・明和・小俣の三つの町にまたがる「大仏山」に建立されたからです。
大仏山は標高五十メートルと、あまり高い山ではありませんが、周辺に複数の池が見られ、多くの遺跡が見つかっていることから、古代の人々にとって重要な生活拠点であったと考えられます。
本日は大仏山とその周辺の歴史や伝説についてお話し、大仏山の信仰について考えてみたいと思います。
【神宮と大仏山周辺】
日露戦争が行われていた頃、「倭(やまと)姫(ひめの)命(みこと)」のお墓(陵墓(りょうぼ))の所在地をめぐって議論が起こりました。倭姫命は、垂(すい)仁(にん)天皇の時代に天照大神を現在の伊勢神宮に祀ったとされる人物で、斎宮(さいくう)の伝説上の起源とされます。
この重要人物のお墓を求めて様々な場所で発掘調査が行われ、倭姫命のお墓が大仏山にあるという話を頼りに、大仏山でも発掘調査が行われると、多くの古墳が見つかり、中には直径十五センチメートルの「鰐(わに)口(くち)形(がた)土器(どき)」などの貴重な遺品も発見されました。
古代から土器を作る技術が高かったからでしょうか、幸福寺の所在する「世古(せこ)」(世古村)を含む大仏山周辺に点在する村々は、古代から農耕のかたわら「土師器(はじのうつわ)」(土器)を造る職業集団の住む里でした。
制作された土師器は、神饌(しんせん)(神様への捧げもの)を盛る器として伊勢神宮の祭典のために定期的に進上されました。このとき祭典で使われた土器の原料となる埴(はに)(粘土(ねんど))は世古村にあった清浄な土取場で採取されていました。
伊勢神宮最古の記録『皇(こう)大神宮(たいじんぐう)儀式帳(ぎしきちょう)』には陶器(すえのうつわ)と土師器(はじのうつわ)の二種類が祭典で使われていたことが記されています。しかし、後世に陶器の方は断絶し、土師器のみが残り、現在も箕村の「神宮土器調製所」で土師器が作られています。
【重源上人と大仏山】
大仏山周辺の村々と伊勢神宮の関係は今お話した通りですが、大仏山と伊勢神宮に関係はなかったのでしょうか。
大仏山麓(ふもと)にあったと伝えられ、現在は小俣町湯田にある浄泉寺の「浄泉寺世出記」には、建久年中(1190-1199年)、「俊乗坊(しゅんじょうぼう)重源(ちょうげん)上人(しょうにん)」が東大寺大仏殿を再建するために伊勢神宮に参り、霊区大仏山に留まり、この山で大仏尊像のひな形(小型の尊像)を作ったと記されています。
重源上人は治承四年(1180年)に平氏の南都焼き打ちによって甚大(じんだい)な被害(ひがい)を蒙(こうむ)った東大寺の再興に取り組んだ僧侶です。
『東大寺(とうだいじ)衆(しゅう)徒(と)参詣(さんけい)伊勢(いせ)大神宮記(だいじんぐうき)』によると、重源は東大寺の大仏(毘盧(びる)遮那仏(しゃなぶつ))を再興させると、大仏のお堂である大仏殿の再興に努めました。しかし、大仏殿を建てるための木材がなかなか集まらず、伊勢神宮に赴(おもむ)き祈りを捧げることにしました。
すると重源の夢の中に天(あま)照(てらす)大神(おおみかみ)(内宮の神様)が現れて、「われは近年疲労している。もし願いを叶えたくば我が身を肥やしたまへ」と告げられました。これを見た重源は、東大寺の僧侶を引き連れて法楽(供養)を行ったと記されています。その後、大仏殿は無事に建立されました。
このように大仏山と伊勢神宮の直接的な関係は見られませんが、重源というお坊さんの伝説を介して関係性が見られます。
【大仏山と霊山浄土】
「堯(ぎょう)孝(こう)」という歌僧の「伊勢紀行」を見ると、永享五年(1433年)に大仏山を見た堯孝は大仏山を「土大仏」と称しています。そして、重源上人の伝説を語り、
此山(このやま)は わしの高(たか)ねか 更(さら)に又(また) 遮那(しゃな)の姿(すがた)を 仰(あお)きみるかな
と歌っています。
これは大仏山を「霊山(りょうざん)浄土(じょうど)」として讃えた歌です。
「霊山浄土」とは、仏教の開祖お釈迦様が実在して教えを説くとされる浄土です。お釈迦様は毘盧遮那仏(奈良の大仏)の化身であるとも言われますので、重源上人の伝説と大仏山の関係を知った堯孝は、大仏山がお釈迦様(毘盧遮那仏)の説法する浄土であると歌ったのだと考えられます。
この重源上人の伝説の外、『勢陽五鈴遺響』には、聖武天皇の時代に伊勢大神宮寺となった逢(おう)鹿瀬(かせ)寺(多気町相鹿瀬)に安置した大きな仏像を作った山であることや、斎宮村にあった連光寺の大仏を作るときに木を切った山であるという伝説も見られます。
どの伝説が始まりかはわかりませんが、大仏に対する信仰をもとに「大仏山」と名付けられ、人々に信仰される山となったと考えられます。
伝説や信仰の起源の中には、実際に起きたことなのか、疑わしいものもあるかもしれません。確かに、歴史的な裏付けがあることも大切ですが、多くの人々が心動かされ、伝記として現代まで受け継がれてきたこともまた素晴らしいと、私は思います。
お釈迦様の浄土である『霊山浄土」にも喩(たと)えられるほど厚く信仰された大仏山。当時院にご参拝頂いた際には、ぜひその歴史や、大仏山を愛した人々にも、想いを馳せて頂けたら嬉しく思います。
「実はすごいところ大仏山!!」
【はじめに】
「大仏山幸福寺」は昭和五十七年に現在の場所にて落慶されました。 幸福寺の山号を「 大仏山」(大佛山)と号すのは、玉城・明和・小俣の三つの町にまたがる「大仏山」に建立されたからです。
大仏山は標高五十メートルと、あまり高い山ではありませんが、周辺に複数の池が見られ、多くの遺跡が見つかっていることから、古代の人々にとって重要な生活拠点であったと考えられます。
本日は大仏山とその周辺の歴史や伝説についてお話し、大仏山の信仰について考えてみたいと思います。
【神宮と大仏山周辺】
日露戦争が行われていた頃、「倭(やまと)姫(ひめの)命(みこと)」のお墓(陵墓(りょうぼ))の所在地をめぐって議論が起こりました。倭姫命は、垂(すい)仁(にん)天皇の時代に天照大神を現在の伊勢神宮に祀ったとされる人物で、斎宮(さいくう)の伝説上の起源とされます。
この重要人物のお墓を求めて様々な場所で発掘調査が行われ、倭姫命のお墓が大仏山にあるという話を頼りに、大仏山でも発掘調査が行われると、多くの古墳が見つかり、中には直径十五センチメートルの「鰐(わに)口(くち)形(がた)土器(どき)」などの貴重な遺品も発見されました。
古代から土器を作る技術が高かったからでしょうか、幸福寺の所在する「世古(せこ)」(世古村)を含む大仏山周辺に点在する村々は、古代から農耕のかたわら「土師器(はじのうつわ)」(土器)を造る職業集団の住む里でした。
制作された土師器は、神饌(しんせん)(神様への捧げもの)を盛る器として伊勢神宮の祭典のために定期的に進上されました。このとき祭典で使われた土器の原料となる埴(はに)(粘土(ねんど))は世古村にあった清浄な土取場で採取されていました。
伊勢神宮最古の記録『皇(こう)大神宮(たいじんぐう)儀式帳(ぎしきちょう)』には陶器(すえのうつわ)と土師器(はじのうつわ)の二種類が祭典で使われていたことが記されています。しかし、後世に陶器の方は断絶し、土師器のみが残り、現在も箕村の「神宮土器調製所」で土師器が作られています。
【重源上人と大仏山】
大仏山周辺の村々と伊勢神宮の関係は今お話した通りですが、大仏山と伊勢神宮に関係はなかったのでしょうか。
大仏山麓(ふもと)にあったと伝えられ、現在は小俣町湯田にある浄泉寺の「浄泉寺世出記」には、建久年中(1190-1199年)、「俊乗坊(しゅんじょうぼう)重源(ちょうげん)上人(しょうにん)」が東大寺大仏殿を再建するために伊勢神宮に参り、霊区大仏山に留まり、この山で大仏尊像のひな形(小型の尊像)を作ったと記されています。
重源上人は治承四年(1180年)に平氏の南都焼き打ちによって甚大(じんだい)な被害(ひがい)を蒙(こうむ)った東大寺の再興に取り組んだ僧侶です。
『東大寺(とうだいじ)衆(しゅう)徒(と)参詣(さんけい)伊勢(いせ)大神宮記(だいじんぐうき)』によると、重源は東大寺の大仏(毘盧(びる)遮那仏(しゃなぶつ))を再興させると、大仏のお堂である大仏殿の再興に努めました。しかし、大仏殿を建てるための木材がなかなか集まらず、伊勢神宮に赴(おもむ)き祈りを捧げることにしました。
すると重源の夢の中に天(あま)照(てらす)大神(おおみかみ)(内宮の神様)が現れて、「われは近年疲労している。もし願いを叶えたくば我が身を肥やしたまへ」と告げられました。これを見た重源は、東大寺の僧侶を引き連れて法楽(供養)を行ったと記されています。その後、大仏殿は無事に建立されました。
このように大仏山と伊勢神宮の直接的な関係は見られませんが、重源というお坊さんの伝説を介して関係性が見られます。
【大仏山と霊山浄土】
「堯(ぎょう)孝(こう)」という歌僧の「伊勢紀行」を見ると、永享五年(1433年)に大仏山を見た堯孝は大仏山を「土大仏」と称しています。そして、重源上人の伝説を語り、
此山(このやま)は わしの高(たか)ねか 更(さら)に又(また) 遮那(しゃな)の姿(すがた)を 仰(あお)きみるかな
と歌っています。
これは大仏山を「霊山(りょうざん)浄土(じょうど)」として讃えた歌です。
「霊山浄土」とは、仏教の開祖お釈迦様が実在して教えを説くとされる浄土です。お釈迦様は毘盧遮那仏(奈良の大仏)の化身であるとも言われますので、重源上人の伝説と大仏山の関係を知った堯孝は、大仏山がお釈迦様(毘盧遮那仏)の説法する浄土であると歌ったのだと考えられます。
この重源上人の伝説の外、『勢陽五鈴遺響』には、聖武天皇の時代に伊勢大神宮寺となった逢(おう)鹿瀬(かせ)寺(多気町相鹿瀬)に安置した大きな仏像を作った山であることや、斎宮村にあった連光寺の大仏を作るときに木を切った山であるという伝説も見られます。
どの伝説が始まりかはわかりませんが、大仏に対する信仰をもとに「大仏山」と名付けられ、人々に信仰される山となったと考えられます。
伝説や信仰の起源の中には、実際に起きたことなのか、疑わしいものもあるかもしれません。確かに、歴史的な裏付けがあることも大切ですが、多くの人々が心動かされ、伝記として現代まで受け継がれてきたこともまた素晴らしいと、私は思います。
お釈迦様の浄土である『霊山浄土」にも喩(たと)えられるほど厚く信仰された大仏山。当時院にご参拝頂いた際には、ぜひその歴史や、大仏山を愛した人々にも、想いを馳せて頂けたら嬉しく思います。





