「春日神と仏教のお話」
「春日大社は如何にして誕生したのか!」
【春日大社】
日本は世界的にも珍しい文化を持ち、日本人がこれらを大切にしてきたことによって多くの文化財が残されています。奈良時代に都がおかれた奈良県は国内でも特に多くの文化財がみられ、神社仏閣との密接な関係の中で作られたものも見られます。そして、中でも面白いのが「春日曼荼羅」です。
「春日(かすが)曼荼羅(まんだら)」には様々なものがあり、一例として鹿と仏様が描かれた「本地(ほんじ)曼荼羅(まんだら)」が挙げられます。これは「春日(かすが)大社(たいしゃ)」の神様(春日(かすが)神(しん))を鹿にたとえ、仏様が姿を変えて現れたのが春日神であると表現したものです。神道(神社)と仏教(お寺)は宗教的に異なったものなのですが神様が仏様であるという表現がなぜ現れたのでしょうか。
本日は春日大社(春日社)の歴史を通して、日本の神様と仏教の関係についてお話したいと思います。
【春日社の始まり】
春日大社は奈良県奈良市春日野町にある神山を含む約三十万坪が世界遺産に指定されており、奈良公園にあることから観光等で訪れた方もいらっしゃるかもしれません。この春日大社は奈良時代から明治時代までは「春日社」と呼ばれておりました。そのため、明治時代以前を「春日社」、明治時代以降を「春日大社」と呼びお話を進めていきたいと思います。
春日社の歴史は春日神の信仰をもとに始まります。
春日神は和銅元年(710)に藤原(ふじわらの)不比(ふひ)等(と)が氏神(うじがみ)(祖先神や守護神のこと)の鹿島神を奈良の三笠山にうつし、春日神と称したのが始まりと伝えられています。
藤原不比等は中臣鎌足(なかとみのかまたり)(藤原鎌足)の息子で、この「藤原」の姓は中臣鎌足が大化の改新で活躍し、改新後も天智天皇の腹心として天皇を支えたことで臨終に天皇より賜ったものです。この「中臣」姓をもつ人々は神様と人々の仲を取り持って祝詞(のりと)を読み上げる一族でしたが、鎌足の功績によって「藤原」姓を賜(たまわ)ると、藤原氏は本来の立場に加えて天皇を補佐する新たな役を得ることができました。
鎌倉初期に書かれた由緒記『古社記』によると、神護景雲二年(768)に三笠山の麓に鹿島の神(タケミカヅチノミコト)・香取の神(フツヌシノミコト)・枚岡の神(アメノコヤネノミコト)に比売(ひめの)神(かみ)をあわせて四殿の社殿を造営してお祀りしたことが記されています。春日神はこれら四殿の神様の総称で、春日神が祀られた藤原氏の氏神社は春日社と称されました。そして、藤原氏の出世と共に春日社も興隆し、平安時代には国家行事の位置づけがなされた神社の祭礼も行われる程立派な神社になりました。
【春日社と興福寺】
この春日社の近くに法相宗大本山の「興福寺(こうふくじ)」が見られます。
『興福寺流記(こうふくじるき)』によると、興福寺は元寺が藤原(ふじわらの)不比(ふひ)等(と)によって春日の地にうつされ、興福寺と呼ぶようになったとされます。春日社が藤原氏と共に栄えたように興福寺も藤原氏の氏寺として興隆し、時代の変遷(へんせん)とともに春日社との関係も密接なものとなりました。
例えば、鎌倉時代の『春日(かすが)権現(ごんげん)験記(げんき)』という春日神の霊験を書いた絵巻物を見ると、興福寺のお坊さんを招いて春日社の神殿に対してお経をあげていたことがみられます。これは「神前(しんぜん)読経(どきょう)」といって、仏教の修行目的である悟りを神様に開いて頂こうという願いを込めて行われました。
『春日権現験記』には、この時、巫女(みこ)を通して神様の託宣(たくせん)があり、「我は菩薩(ぼさつ)の位に至ったのに朝廷に仕える貴族は未だに私に菩薩の号を与えていない」と訴えられました。そのときお坊さんが「菩薩のお名前は何と申しましょうか」と尋ねたところ、「慈悲万行菩薩と名乗らせるように」との返事が返ってきました。このように「神前読経」を通して春日神と興福寺の関係が見られました。
また、興福寺のお坊さんたちは強訴(ごうそ)といって朝廷(ちょうてい)や幕府(ばくふ)にさまざまな要求を述べる際に春日の神木を掲(かか)げて訴えることもありました。この行動は興福寺のお坊さんたちの訴えは「春日神の意向である」と示すことでもあり、強訴によって訴えられた人々は神の祟りを恐れて聞き入れるしかありませんでした。
【春日大社の誕生】
以上のように藤原氏の氏神社と氏寺という立場から春日社と興福寺は密接な関係を早くから築いていました。しかし、明治維新に際し、政府による王政復古の報によって全国各地の寺社仏閣は「寺院なのか、神社なのか」をはっきりすることを要求されました。これは「神仏(しんぶつ)分離令(ぶんりれい)」や「神仏(しんぶつ)判然令(はんぜんれい)」と呼ばれます。
これまで共存してきた春日社と興福寺にもこの報が伝わると興福寺も選択を迫られることとなりました。興福寺のお坊さんたちは協議のうえ自分たちも従来より春日社に奉仕してきたのであるから還俗(お坊さんをやめること)し、春日社に奉仕したい旨を政府に提出しました。
そして、慶応四年(1868)に興福寺のお坊さんたちの申し出は許可され、興福寺の大多数のお坊さんたちは春日社の神職となりました。
現在、春日社は全国およそ三千社の「春日神社」の総本社となったことから「春日大 社」と称されるようになりました。
現代人から見ると神社とお寺は別々の宗教で無関係であると錯覚してしまいます。しかし、国の政策によって神社とお寺が分けられたのは百年ほど前のことで、千年以上は神社とお寺が共存していることが当たり前でした。つまり、日本に見られる文化財の多くが神社とお寺が共存していた時のものなのです。はじめに紹介した「春日曼荼羅」も同様で「垂迹曼荼羅」は本日お話した春日神と興福寺の関係の中から誕生した文化財なのです。
今後皆様が観光などで神社やお寺に訪れ文化財に触れる時は「これは神社によって作られたものか、お寺によるものか、それとも両方によるものか」と想像しながら鑑賞してみてください。今までになかった新たな発見につながり、歴史の見方も深いものになるのではないでしょうか。
「春日大社は如何にして誕生したのか!」
【春日大社】
日本は世界的にも珍しい文化を持ち、日本人がこれらを大切にしてきたことによって多くの文化財が残されています。奈良時代に都がおかれた奈良県は国内でも特に多くの文化財がみられ、神社仏閣との密接な関係の中で作られたものも見られます。そして、中でも面白いのが「春日曼荼羅」です。
「春日(かすが)曼荼羅(まんだら)」には様々なものがあり、一例として鹿と仏様が描かれた「本地(ほんじ)曼荼羅(まんだら)」が挙げられます。これは「春日(かすが)大社(たいしゃ)」の神様(春日(かすが)神(しん))を鹿にたとえ、仏様が姿を変えて現れたのが春日神であると表現したものです。神道(神社)と仏教(お寺)は宗教的に異なったものなのですが神様が仏様であるという表現がなぜ現れたのでしょうか。
本日は春日大社(春日社)の歴史を通して、日本の神様と仏教の関係についてお話したいと思います。
【春日社の始まり】
春日大社は奈良県奈良市春日野町にある神山を含む約三十万坪が世界遺産に指定されており、奈良公園にあることから観光等で訪れた方もいらっしゃるかもしれません。この春日大社は奈良時代から明治時代までは「春日社」と呼ばれておりました。そのため、明治時代以前を「春日社」、明治時代以降を「春日大社」と呼びお話を進めていきたいと思います。
春日社の歴史は春日神の信仰をもとに始まります。
春日神は和銅元年(710)に藤原(ふじわらの)不比(ふひ)等(と)が氏神(うじがみ)(祖先神や守護神のこと)の鹿島神を奈良の三笠山にうつし、春日神と称したのが始まりと伝えられています。
藤原不比等は中臣鎌足(なかとみのかまたり)(藤原鎌足)の息子で、この「藤原」の姓は中臣鎌足が大化の改新で活躍し、改新後も天智天皇の腹心として天皇を支えたことで臨終に天皇より賜ったものです。この「中臣」姓をもつ人々は神様と人々の仲を取り持って祝詞(のりと)を読み上げる一族でしたが、鎌足の功績によって「藤原」姓を賜(たまわ)ると、藤原氏は本来の立場に加えて天皇を補佐する新たな役を得ることができました。
鎌倉初期に書かれた由緒記『古社記』によると、神護景雲二年(768)に三笠山の麓に鹿島の神(タケミカヅチノミコト)・香取の神(フツヌシノミコト)・枚岡の神(アメノコヤネノミコト)に比売(ひめの)神(かみ)をあわせて四殿の社殿を造営してお祀りしたことが記されています。春日神はこれら四殿の神様の総称で、春日神が祀られた藤原氏の氏神社は春日社と称されました。そして、藤原氏の出世と共に春日社も興隆し、平安時代には国家行事の位置づけがなされた神社の祭礼も行われる程立派な神社になりました。
【春日社と興福寺】
この春日社の近くに法相宗大本山の「興福寺(こうふくじ)」が見られます。
『興福寺流記(こうふくじるき)』によると、興福寺は元寺が藤原(ふじわらの)不比(ふひ)等(と)によって春日の地にうつされ、興福寺と呼ぶようになったとされます。春日社が藤原氏と共に栄えたように興福寺も藤原氏の氏寺として興隆し、時代の変遷(へんせん)とともに春日社との関係も密接なものとなりました。
例えば、鎌倉時代の『春日(かすが)権現(ごんげん)験記(げんき)』という春日神の霊験を書いた絵巻物を見ると、興福寺のお坊さんを招いて春日社の神殿に対してお経をあげていたことがみられます。これは「神前(しんぜん)読経(どきょう)」といって、仏教の修行目的である悟りを神様に開いて頂こうという願いを込めて行われました。
『春日権現験記』には、この時、巫女(みこ)を通して神様の託宣(たくせん)があり、「我は菩薩(ぼさつ)の位に至ったのに朝廷に仕える貴族は未だに私に菩薩の号を与えていない」と訴えられました。そのときお坊さんが「菩薩のお名前は何と申しましょうか」と尋ねたところ、「慈悲万行菩薩と名乗らせるように」との返事が返ってきました。このように「神前読経」を通して春日神と興福寺の関係が見られました。
また、興福寺のお坊さんたちは強訴(ごうそ)といって朝廷(ちょうてい)や幕府(ばくふ)にさまざまな要求を述べる際に春日の神木を掲(かか)げて訴えることもありました。この行動は興福寺のお坊さんたちの訴えは「春日神の意向である」と示すことでもあり、強訴によって訴えられた人々は神の祟りを恐れて聞き入れるしかありませんでした。
【春日大社の誕生】
以上のように藤原氏の氏神社と氏寺という立場から春日社と興福寺は密接な関係を早くから築いていました。しかし、明治維新に際し、政府による王政復古の報によって全国各地の寺社仏閣は「寺院なのか、神社なのか」をはっきりすることを要求されました。これは「神仏(しんぶつ)分離令(ぶんりれい)」や「神仏(しんぶつ)判然令(はんぜんれい)」と呼ばれます。
これまで共存してきた春日社と興福寺にもこの報が伝わると興福寺も選択を迫られることとなりました。興福寺のお坊さんたちは協議のうえ自分たちも従来より春日社に奉仕してきたのであるから還俗(お坊さんをやめること)し、春日社に奉仕したい旨を政府に提出しました。
そして、慶応四年(1868)に興福寺のお坊さんたちの申し出は許可され、興福寺の大多数のお坊さんたちは春日社の神職となりました。
現在、春日社は全国およそ三千社の「春日神社」の総本社となったことから「春日大 社」と称されるようになりました。
現代人から見ると神社とお寺は別々の宗教で無関係であると錯覚してしまいます。しかし、国の政策によって神社とお寺が分けられたのは百年ほど前のことで、千年以上は神社とお寺が共存していることが当たり前でした。つまり、日本に見られる文化財の多くが神社とお寺が共存していた時のものなのです。はじめに紹介した「春日曼荼羅」も同様で「垂迹曼荼羅」は本日お話した春日神と興福寺の関係の中から誕生した文化財なのです。
今後皆様が観光などで神社やお寺に訪れ文化財に触れる時は「これは神社によって作られたものか、お寺によるものか、それとも両方によるものか」と想像しながら鑑賞してみてください。今までになかった新たな発見につながり、歴史の見方も深いものになるのではないでしょうか。





