~自然界から見た「ことば」~
会話は人間の生活を支える重要な手段の一つです。そのため会話を円滑(えんかつ)に進めるために多くの言葉が生まれ、言葉に関する多くの解釈が生まれました。
人間が言葉を重要視したのは、音によって考えや気持ちを伝えることに優れていたからだと考えられます。しかし、不思議なことに言葉が便利であるにも関わらず、自然界において人間だけがこれを使っています。
自然界の生物(虫を含む)を観察すると多くのものに、手、足、目、口などの部位が見られます。人間も同じくこれらの部位が見られますが、羽、毛、爪と言った部位は先ほど挙げた部位に比べ極端に減ってしまいます。この理由として、生物が生きるうえで有利な部位ほど多くの生物たちが持っていると考えられます。つまり、多くの生物が持つほど、自然界において便利な部位だという事が考えられるのです。
羽を持てば便利だと考えられますが、雨が降ってしまえば無防備になりますし、便利なのは空に敵が少ないからであって、多くの生物が羽を持つならばあまり意味を持ちません。
さて、このように考えていくと人間が使う「言葉」はどうでしょうか。自然界において言葉を巧(たく)みに使うのは人間だけです。そしてその言葉を文字として現し、文章としてその内容を楽しんだり、後世に伝えたりと人間生活の中で必要不可欠なものとなっています。しかし、他の生物では鳴き声程度で人間ほど言葉が発達していません。そのため、生物においてあまり重要ではないものだと考えられます。しかし、この不要なものを重視し生活の中に積極的に取り込んだ「言葉」というものは人間を人間たらしめる行動だと言えるのではないでしょうか。
~「ことば」の力~
日本には言霊(ことだま)という考え方があり、言葉には不思議な力が宿っていると古来より考えられてきました。そのため、言葉によって操る力があるとも言われ、本名(=諱(いみな))を隠したり、呼ぶことを禁止した歴史もあります。例として挙げるならば清少納言です。この名は役職や本名をもとに作られた偽名と考えられ、現代においても正確な名を知る資料は見つかっていません。
このように「言葉」がもつ不思議な力についての考えは、日本のみならず世界各地で見られます。インドではバラモン教(今のヒンドゥー教)という宗教では神様を操る道具としてお経を読んでいました。バラモン教の読経にとって大切なことは、お経に書かれた言葉を正しく唱えることでした。お経の言葉を間違えずに読むことで神様を操り、自分の願い事をかなえさせようとしたのです。そのため、儀式をお願いした人々はバラモン教のお坊さんたちがお経を間違えないようにお布施を渡したそうです。(これがお葬式でお布施を渡すようになった始まりとも言われています。)
バラモン教の言葉に対する考え方は仏教に取り込まれ、特にこれを重要視した仏教の考え方に密教があります。密教ではご真言をお唱えしますが、これは仏様の真の言葉だと考えられています。当寺(幸福寺)の場合ですと『オン カカカ ビサンマエイ ソワカ』とお唱えしますが、このご真言でお地蔵様にお願をたてます。
~なぜお経を唱えるのか~
バラモン教では言葉を使って神様を操りましたが、密教の場合は神仏と一体になるために読経します。一体となることで神仏のような正しい目が開かれ、道理が見えるようになります。これを「さとり」と呼びますが、さとりはお坊さんの修行目標であり、真言によってさとりに達することが出来ると考えます。
それではなぜお墓や仏壇で一般の人もお唱えしなくてはならないのか、という疑問が湧いてくるかもしれません。現代では録音によって読経を流す方も少なくはありません。
ここで大切なのは言霊という考え方です。つまり、言葉による不思議な力のことですが、ここでいう言霊の不思議な力について心理学的にお話したいと思います。
例えば、「お前はダメ人間だ」と言われ育てられた人間は、成績が下がる傾向にあると言われます。逆に、褒(ほ)めて期待すると良い成績を得る傾向があるとされます。心理学では先のものをゴーレム効果と呼び、後のものをピグマリオン効果と呼びます。マイナスの言葉を受けるとやる気がなくなり、プラスの言葉を受けるとやる気があがると言ったところです。
これらの効果は人間関係にも現れます。嬉しい、楽しいといったプラスの言葉を普段から使う人に人は集まります。逆に苦しい、悲しいと言ったマイナスの言葉を普段から使う人には集まろうとしません。人がプラスの言葉に集まるのは、そこに居心地の良さを感じるからです。また、これらの言葉は他人だけではなく自身にも効果があります。生きるのが辛いと感じる人は、マイナスの言葉を使うくせを持っています。その場合は常にプラスの言葉を使うようにしましょう。少しのことですが生活環境が良い方へと変わって行くのが感じられると思います。
読経の場合も同様です。お墓や仏壇でお唱えすると死者の魂も、その言葉に安心し、心地よく感じます。しかし、録音のようにただお唱えをするのではなく、「届けたい」という心に反応して居心地の良さを感じます。いくら良い言葉で語っても、そこに言葉を発した人の魂(言霊)が宿っていないと、気持ちは伝わらないのと同じです。死者であっても人と思って接することが大切です。
~功徳(くどく)~
お経の最後にお唱えする「回向(えこう)文(もん)」というものがあります。回向文の内容を簡単に訳すと『読経の功徳によって、私とすべての者が正しい方へ導かれますように』という願いが説かれています。
功徳とは、善行を積むことによってえられる幸せを指しますが、この善行は自分を中心に考えた行動ではなく、他者のために行う清らかな行いをいいます。他者を思い、お墓や仏壇の前で経を読み上げることが功徳につながります。その時、読経がへたくそだったとしても構いません。あなたの願いを届けたいという言霊(ことば)に生きている人と故人の魂は揺さぶられるのです。
皆様の生活において読経をするチャンスがあると思います。そのチャンスは思いを届けるチャンスだと理解し、心を込めて読経してあげてください。
会話は人間の生活を支える重要な手段の一つです。そのため会話を円滑(えんかつ)に進めるために多くの言葉が生まれ、言葉に関する多くの解釈が生まれました。
人間が言葉を重要視したのは、音によって考えや気持ちを伝えることに優れていたからだと考えられます。しかし、不思議なことに言葉が便利であるにも関わらず、自然界において人間だけがこれを使っています。
自然界の生物(虫を含む)を観察すると多くのものに、手、足、目、口などの部位が見られます。人間も同じくこれらの部位が見られますが、羽、毛、爪と言った部位は先ほど挙げた部位に比べ極端に減ってしまいます。この理由として、生物が生きるうえで有利な部位ほど多くの生物たちが持っていると考えられます。つまり、多くの生物が持つほど、自然界において便利な部位だという事が考えられるのです。
羽を持てば便利だと考えられますが、雨が降ってしまえば無防備になりますし、便利なのは空に敵が少ないからであって、多くの生物が羽を持つならばあまり意味を持ちません。
さて、このように考えていくと人間が使う「言葉」はどうでしょうか。自然界において言葉を巧(たく)みに使うのは人間だけです。そしてその言葉を文字として現し、文章としてその内容を楽しんだり、後世に伝えたりと人間生活の中で必要不可欠なものとなっています。しかし、他の生物では鳴き声程度で人間ほど言葉が発達していません。そのため、生物においてあまり重要ではないものだと考えられます。しかし、この不要なものを重視し生活の中に積極的に取り込んだ「言葉」というものは人間を人間たらしめる行動だと言えるのではないでしょうか。
~「ことば」の力~
日本には言霊(ことだま)という考え方があり、言葉には不思議な力が宿っていると古来より考えられてきました。そのため、言葉によって操る力があるとも言われ、本名(=諱(いみな))を隠したり、呼ぶことを禁止した歴史もあります。例として挙げるならば清少納言です。この名は役職や本名をもとに作られた偽名と考えられ、現代においても正確な名を知る資料は見つかっていません。
このように「言葉」がもつ不思議な力についての考えは、日本のみならず世界各地で見られます。インドではバラモン教(今のヒンドゥー教)という宗教では神様を操る道具としてお経を読んでいました。バラモン教の読経にとって大切なことは、お経に書かれた言葉を正しく唱えることでした。お経の言葉を間違えずに読むことで神様を操り、自分の願い事をかなえさせようとしたのです。そのため、儀式をお願いした人々はバラモン教のお坊さんたちがお経を間違えないようにお布施を渡したそうです。(これがお葬式でお布施を渡すようになった始まりとも言われています。)
バラモン教の言葉に対する考え方は仏教に取り込まれ、特にこれを重要視した仏教の考え方に密教があります。密教ではご真言をお唱えしますが、これは仏様の真の言葉だと考えられています。当寺(幸福寺)の場合ですと『オン カカカ ビサンマエイ ソワカ』とお唱えしますが、このご真言でお地蔵様にお願をたてます。
~なぜお経を唱えるのか~
バラモン教では言葉を使って神様を操りましたが、密教の場合は神仏と一体になるために読経します。一体となることで神仏のような正しい目が開かれ、道理が見えるようになります。これを「さとり」と呼びますが、さとりはお坊さんの修行目標であり、真言によってさとりに達することが出来ると考えます。
それではなぜお墓や仏壇で一般の人もお唱えしなくてはならないのか、という疑問が湧いてくるかもしれません。現代では録音によって読経を流す方も少なくはありません。
ここで大切なのは言霊という考え方です。つまり、言葉による不思議な力のことですが、ここでいう言霊の不思議な力について心理学的にお話したいと思います。
例えば、「お前はダメ人間だ」と言われ育てられた人間は、成績が下がる傾向にあると言われます。逆に、褒(ほ)めて期待すると良い成績を得る傾向があるとされます。心理学では先のものをゴーレム効果と呼び、後のものをピグマリオン効果と呼びます。マイナスの言葉を受けるとやる気がなくなり、プラスの言葉を受けるとやる気があがると言ったところです。
これらの効果は人間関係にも現れます。嬉しい、楽しいといったプラスの言葉を普段から使う人に人は集まります。逆に苦しい、悲しいと言ったマイナスの言葉を普段から使う人には集まろうとしません。人がプラスの言葉に集まるのは、そこに居心地の良さを感じるからです。また、これらの言葉は他人だけではなく自身にも効果があります。生きるのが辛いと感じる人は、マイナスの言葉を使うくせを持っています。その場合は常にプラスの言葉を使うようにしましょう。少しのことですが生活環境が良い方へと変わって行くのが感じられると思います。
読経の場合も同様です。お墓や仏壇でお唱えすると死者の魂も、その言葉に安心し、心地よく感じます。しかし、録音のようにただお唱えをするのではなく、「届けたい」という心に反応して居心地の良さを感じます。いくら良い言葉で語っても、そこに言葉を発した人の魂(言霊)が宿っていないと、気持ちは伝わらないのと同じです。死者であっても人と思って接することが大切です。
~功徳(くどく)~
お経の最後にお唱えする「回向(えこう)文(もん)」というものがあります。回向文の内容を簡単に訳すと『読経の功徳によって、私とすべての者が正しい方へ導かれますように』という願いが説かれています。
功徳とは、善行を積むことによってえられる幸せを指しますが、この善行は自分を中心に考えた行動ではなく、他者のために行う清らかな行いをいいます。他者を思い、お墓や仏壇の前で経を読み上げることが功徳につながります。その時、読経がへたくそだったとしても構いません。あなたの願いを届けたいという言霊(ことば)に生きている人と故人の魂は揺さぶられるのです。
皆様の生活において読経をするチャンスがあると思います。そのチャンスは思いを届けるチャンスだと理解し、心を込めて読経してあげてください。





