No.36 勝鬘経(令和5年4月)

「聖徳太子が重要視したお経」
「誰でも幸せになることができる!」
 
【女性と悟り】
 日本に伝わったお経の中に『勝鬘経(しょうまんぎょう)』(正しくは『勝鬘(しょうまん)師子(しし)吼(く)一乗(いちじょう)大方便(だいほうべん)方広(ほうこう)経(きょう)』)というものがあります。
 日本では古くから『勝鬘経』を重要なお経として信仰しており、日本を代表する歴史上の人物である「聖徳太子(しょうとくたいし)」も『勝鬘経』の解説書である『勝鬘経義疏(しょうまんぎょうぎしょ)』を書いています。
 では、日本で重要視された『勝鬘経』とはどのようなお経なのでしょうか。
 本日は『勝鬘経』に見られる仏教の教えについてご紹介したいと思います。

 【女性と哲学】
 先ずは『勝鬘経(しょうまんぎょう)』の内容についてお話したいと思います。
『勝鬘経』のあらすじは、仏教を開いた人物であるお釈迦様が仏教信者である勝鬘夫人の目の前に現れ、「勝鬘夫人は前世から悟っており、将来は普光如来という仏様になる」と予言されるところから始まります。そして、勝鬘夫人は様々な問題について仏教の教えを説き、それに対してお釈迦様がそうだ、そうだといって勝鬘夫人の説法を認めるのです。
 勝鬘夫人による説法は哲学的で難しいものが多く、お坊さんでも理解するのが難しい場合があります。『勝鬘経』で勝鬘夫人が難しい説法を説く背景には『勝鬘経』が記された時代の尼(あま)さん(女性修行者)たちが関係したと考えられます。
お釈迦様が生きた紀元前五〇〇年頃、仏教の修行者は修行の一環として哲学的な説法も行っていました。これは男性のお坊さんだけではなく尼さんも同様で、難しい内容を勉強し、それを人々に伝えていました。
 昔の人々にとって女性が哲学することは珍しかったようで、紀元前三〇〇年頃にインドに来たギリシャ人が、「インドに女性の哲学者たちがいて難しい議論をしている」と、驚いたという記録があるほどです。ギリシャ人がインドに来た時にはすでにお釈迦様の弟子である尼さんたちが哲学的な議論をしていたので、ギリシャ人が見た女性哲学者たちは仏教の尼さんであったと思われます。
 『勝鬘経』が誕生した頃のインドでは多くの女性が差別されていました。例えば、マヌ法典というインドの規範書(きはんしょ)には、「三(さん)従(じゅう)」といって、嫁(よめ)に行くまでは父親に従(したが)い、嫁に行ったら夫に従い、夫が死んだら子どもに従うことが女性の正しい生き方だと記されていました。そのため、インドでの女性の地位は男性よりも低く、女性は悟(さと)りを開く(本当の幸せに気づく)ことができないと考えられていたのです。恐らく、身分が低い女性は哲学を理解することができないと考えられ、難しい議論ができないと思われたのではないでしょうか。しかし、差別は正しい行いではないと仏教では考え、女性であっても哲学ができ、悟りを開くことができると説きました。その一例が『勝鬘経』であり、男女の平等を示す一つの方法だったと捉(とら)えることができるのではないでしょうか。

 【如来蔵】
 さて、『勝鬘経』には哲学的な内容が多く複雑なものが見られることから、すべての内容を説明することができません。そこで『勝鬘経』に見られる重要な教えの一つである「如来蔵(にょらいぞう)」についてお話したいと思います。
 如来蔵(にょらいぞう)とは、すべての人が「仏様になれる可能性をもつ」という考え方です。
 『勝鬘経』では、誰もが自分の中に仏様をやどしており、それに気づくことで自分自身が仏様になれると説きます。しかし、普段は煩悩(ぼんのう)という悪い心によって自分の中の仏様が隠れて見えなくなっているのです。そのため、正しい行いをくり返して煩悩をはらうことで、自分の中にいる仏様が徐々に見えるようになり、自分の中の仏様に気づき悟りを開くことができると考えます。
 仏様と言うと仏像を連想する方がいらっしゃるかも知れません。しかし、本来、仏様とは悟りを開き、仏教で説く本当の幸せに気づいた人物を指す言葉なので、誰か決まった人物を指す言葉ではありません。そのため、誰であっても悟りを開けば「仏様」となることができるのです。仏像で彫刻された仏様は代表的な仏様の一人といえます。
 「仏様になれる」と聞くと大げさに思われるかも知れません。しかし、本当の自分に気づくことで、本当の幸せとは何かに気づき、幸せな人生を歩むことができると言い替えるならば、受け入れやすいのではないでしょうか。
 
 【おわりに】
 本日は、女性差別が当たり前だった時代に、勝鬘夫人という女性を通して、性別に関係なく誰もが悟りを開くことができ、本当の幸せに気づくことができると説いた『勝鬘経』の教えについてお話しさせて頂きました。
 その時代の常識や自分自身の思い込みなど、自分自身の可能性を狭(せば)めてしまう枷(かせ)となるものはたくさんあると思います。しかし、本当は誰もが本当の幸せに気づくことができる可能性を秘めているのです。自分には無理だと諦(あきら)め立ち止まってしまいそうな時、本日のお話が皆様の勇気の源となれたら幸いに思います。