No.10 年忌供養の話~初七日編~(平成31年2月号)

「死後の世界の最初の裁判!」「他人を尊ぶ人間となれ」


 ~なぜ年忌供養をするの?~

 仏教の教えに「諸行(しょぎょう)無常(むじょう)」というものがあります。これはすべてのものは常に変化し同じものはないという教えです。路傍(ろぼう)の石でさえも風化によって形を変え、屋根から垂れた雨水によって石を穿(うが)つこともあります。

 私たちの周りはこのように常に変化し、永遠に存在するものはありません。私たちの命も同様で、生まれることは死を迎える原因となっています。逆に死がなければ生まれることもありません。このように考えると生きることと死ぬことは互いに関係し合っていることに気付きます。しかし、死が突然来るのではなく病にかかる、年をとるなどの段階があって生から死へと向かうのが自然の流れであると言えます。では、死から生へと生まれ変わったときはどのような段階を踏むのでしょうか。この謎は実際に死を迎えるまで分かりません。そのため、民族や宗教によって多くの死後の世界が語られるようになりました。

 仏教が誕生したインドでは、「ヤマ」という神様が初めてあの世に行ったと考えられました。ヤマはあの世をほっておくと反省せず悪い心を持ったまま生まれ変わる者が現れると考えました。そこで亡くなった者が初めに行く地獄に裁判所を作り、心の善悪を判定して正しい心として生まれ変われるような施設としました。この考え方は仏教とともに中国に伝わりヤマは「閻魔(えんま)大王(だいおう)」と呼ばれるようになりました。

 さて、地獄の裁判官は増え閻魔大王(ヤマ)を入れて十人になり、この方々を「十王」と呼ぶようになりました。十王は判定に間違いがないように七日ごとに裁判を行います。その後、三十五日目の閻魔大王の時に行き先が決定し、さらに間違いのないように四十九日の裁判を行った後に生まれ変わると考えられています。年忌供養はこの裁判で亡者がどれだけ他人に思われていたかを示し、減刑をお願いするものです。「百か日」から「三回忌」は裁判の判定が決まらなかった場合の受け皿としての意味や、生まれ変わった先で幸せに暮らせるように祈ることになります。本日はこの十王の中で最初に裁判を行う秦広王について見てみたいと思います。


~秦広王と不動明王~

 『十王経』(正式な名前は『仏説地蔵菩薩発心因縁十王経』)と呼ばれるお経があります。それによると私たちが亡くなったとき、閻魔大王に仕える鬼たちが現れ、私たちを秦広王のもとへ連れて行きます。このときに六日から七日ほどかかると言われ、ちょうど初七日のとき、秦広王のもとに着くと亡者は殺生の経歴について聞かれます。

 殺生とは生き物を殺すことを指しますが、秦広王がみるのは亡者が相手の命を尊ぶ人であったかです。生きている限り殺生を避けることはできません。特に食べるという行為は動物であっても植物であっても同じ命に変わりはありません。しかし、食事を美味しくないと言ってむやみに捨てることは命を粗末にすることになり、命を尊ばない人であったと考えられるでしょう。このように殺生を見るにしても様々な命の見方をもって裁判するのが秦広王です。

 仏教では十王は仏様の仮の姿であると考えます。それぞれの姿に諸説ありますが、一番有名なものに「十三仏」と呼ばれる十三尊の仏様たちがいます。

 十三仏は閻魔大王のように正しい生まれ変わりが行われることを願い、十王に姿を変えて現れています。そして秦広王は十三仏の「不動明王」であると言われています。
 不動明王は今日では「お不動様」の呼び名で親しまれる怒った姿をした仏様です。しかし、不動明王の怒りの表情は優しさの裏返しと考えられています。

 例えば親が子を叱るときに怒りをあらわにしますが、その怒りは子をイジメてやろうといった気持ではなく、無理やりにでも正しい方に引っ張ってあげたいと思う気持ちの裏返しです。不動明王の表情はこれと同様で、亡くなったばかりの亡者は亡くなったことに気づかず、気づいてもこの世にとどまりたいと思いわがままを言ったとき、秦広王よりも恐ろしい姿をした不動明王となって、左手に持つ羂索(けんさく)(ロープ)で相手を縛り上げ、?(く)利(り)伽羅(から)と呼ばれる右手の剣で現世への未練を断ち切ります。
 
 不動明王は瑟瑟座(しつしつざ)と呼ばれる岩を模(かたど)ったゴツゴツした台座に座っていますが、実際に岩に座って描かれることもあります。この岩はヒマラヤ連山の最高峰のエベレストであると言われています。エベレストの大きさとそのどっしりした姿から、動かざること山の如し、という言葉のように不動であるというイメージが現れていると思われます。また、このように不動であるのは不動明王がすべての人々を救うまで現世に留まるという意思を表しているとも考えられ、怒りの表情の裏にあるやさしさを感じ取ることが出来ると思います。


~不動の心~

 さて、秦広王による最初の裁判で殺生を見る理由は、その人の人間性を確かめるうえで最も重要だからだと私は考えます。

 普段から命の大切さを意識する人は、それが癖となり多少の問題でも平常心を失いません。しかし、普段から命を尊ばず自分の好き勝手にふるまい相手を傷つけることになれてしまうと、無意識に他人を傷つける人になってしまうのではないでしょうか。世の中には善い人もいれば悪い人もいます。そのため、人の好き嫌いが出るのも当たり前のことでしょう。ですがそこを感情的にならず受け止め相手を理解することが相手を尊ぶことへつながるのではないでしょうか。不動明王の不動の姿はまさにその見本となっているように感じます。


 皆様の人生において初七日供養に参加したり、誰かに供養をしていただく時があると思います。その時は揺れ動く自分の心を不動にし、今の自分は他人を尊ぶ人間であるか見直してください。反省し改善できる心を持つことが秦広王または不動明王が望んでいる事なのですから。