No.35 身体(令和5年3月)

「肉体と精神について考える」
「一切は、男に非ず、女に非ず」

【身体について】
 二十歳の若者がいらっしゃるとしましょう。特別なことをしない限りこの方は四十年後には老化が進み、しわが増え、体力が落ちて行きます。すると老人となったこの方は昔を懐かしみ「若い時はもっとお肌の張りがあった、体力があった」などと考えます。このように人間の肉体は若い時と老化した後では全く違ったものとなってしまいます。実際に六から七年ほどで細胞のほとんどが入れ替わっているそうで、四十年も経てば肉体に関してはほとんど別人になってしまっていると言っても過言ではありません。しかし、肉体が大きく変化しても「私」と考える「精神」は変わらず続いてきたと感じるのではないでしょうか。
 「からだ」という言葉には「体」と「身体」の二つの漢字が当てられます。
 「体」は「からだ」「全身」「姿」といった肉体を指す漢字として用いられます。これに対して、「身」は「からだ」以外に「自ら」「己(おのれ)」を指す漢字でもあるため、「身体」は肉体だけではなく精神をも指す漢字としても用いることが出来ます。そのため、「身体」の漢字は「肉体」と「精神」をあわせて「私のからだ」を指す漢字であると言えます。
 では仏教ではこの「身体(からだ)」(肉体と精神)の関係についてどのように考えるのでしょうか。
 本日は『維摩経(ゆいまきょう)』に見られる「天女(てんにょ)散華(さんげ)」のお話から、「身体」について考えたいと思います。
 
 【天女散華のもお話】
 「天女(てんにょ)散華(さんげ)」のお話が書かれた時代の女性たちはひどい差別を受けていました。「三(さん)従(じゅう)」といって、「女性は幼くして父親に従い、嫁となっては夫に従い、老いては子に従う」ことが『マヌ法典』という法律に定められたほどです。そのため、女性差別は間違っているという思いを込めてこのお話は記されました。このことを念頭に置いて読んで頂ければ幸いです。

 ある時、天女が現れて天の華(はな)(散華)を菩薩(ぼさつ)様と弟子たちの上にふりかけました。華は菩薩様のところでは離れ落ちましたが、弟子たちにははりついて落ちません。
 華を取り去ろうとしている弟子のひとりである舎利弗(しゃりほつ)に対して天女は「なぜ取り去ろうとするのですか」と尋(たず)ねました。すると舎利弗は「これはお坊さんにとってふさわしくないからです」と答えました。すると天女は「ふさわしくないと思うのは執着(しゅうちゃく)する心(一つの事にしがみつき離れることが出来ない心)があるからです。執着(しゅうちゃく)する心があるから華がつくのです。執着するところがないことこそ、すべてのもののありのままの姿なのです」と述べました。
 天女の言葉に感心した舎利弗は、「なぜあなたはそこまで智慧(ちえ)が働くのに女性の姿をしているのですか」と尋ねました。すると天女は神通力を使って天女自身と舎利弗の体を入れ替えてしまいました。
 自分の体が女性になってしまった舎利弗はうろたえてもとの体に戻してほしいと頼みます。すると再び天女は神通力を使って天女自身と舎利弗の体を入れ替えました。自分の体がもとに戻ったのを確認すると舎利弗は安心しました。これを見た天女は「あなたの体はどこに行きましたか」と尋ねました。すると舎利弗は「どこに行ったのでもない。女性でないのに女性の体をしていたのです」と答えました。これを聞いた天女は「舎利弗。あなたのおっしゃる通り女性も〝女性でないのに女性の体をしている〟のです。ゆえにお釈迦様は言われました〝一切は男に非(あら)ず、女に非(あら)ず〟と…」と述べました。
 
 【身体について考える】
 以上が「天女散華」の内容です。
 このお話では舎利弗が執着を捨てきれないお坊さんとして登場しました。
お話前半部では「華がつく」と「執着(執(と)り着(つ)く)」をかけて舎利弗に執着が残っていることを示しています。また、お話後半部では舎利弗が「なぜあなたはそこまで智慧(ちえ)が働くのに女性の姿をしているのですか」と天女に尋ねましたが、裏を返せば「女性に智慧はない」ということになります。つまり、舎利弗は「女性は劣(おと)っている」という考えに執着していることが読み取れます。
天女はそのような舎利弗の目を開かせるために体を入れ替え、肉体が入れ替わっても精神は変わらないことを説きました。
 普段私たちは男性・女性と性別を区別しています。当然、肉体のつくりに違いがある以上、科学的に分類することは悪いことではありません。しかし、性別は人間が勝手に決めたもので、精神に至っては見て判断することすらできません。よって男性の肉体だから精神も男性、女性の肉体だから精神も女性であるという判断は正しいとは言えないのです。仏教を開いた人物であるお釈迦様に言わせれば性別の区別は思い込みであり、「一切は男に非(あら)ず、女に非(あら)ず」とすべてのものに男性も女性もないと説くのです。
 はじめにお話した「若いこと」と「老いること」も同じではないでしょうか。確かに肉体の変化はありますが、老いたからと言って精神も老いているとは言えません。老いたという決めつけは「身体」(肉体と精神)の関係から「私」が勝手に判断しているだけなのです。
 もし自分は老いているからと決めつけこだわり執着すれば自らが己の自由を奪う原因にもなります。肉体が老いたとしても若い気持ちで精神を保つことが出来れば若かりしときと変わらず楽しく過ごせるのではないでしょうか。
 今回の「天女散華」のお話で天女が述べていたように、仏教では執着を離れることでもののありのままの姿が見えます。つまり、決めつける心を離れることでありのままの自分に気づき、ありのままの他人も見ることができます。そして、ありのままの世界に気づくことができたならば、世界がより自由に感じるのではないでしょうか。