No.40 天狗 (令和5年8月)

【はじめに】
〝天狗(てんぐ)になる〟という言葉を『日本国語大辞典』で引くと、「得意になる。鼻高々になる。いい気になって自慢する」と説明されています。
天狗と聞くと、高い鼻に赤ら顔、山伏やお坊さんの衣(ころも)を着て高下駄(たかげた)を履(は)き、扇(おうぎ)を持って空中を自在に飛ぶ妖怪を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。そのため、〝天狗になる〟という言葉を聞いて「鼻高々になる」という説明も天狗の表情として納得できます。しかし、「天狗になる」の説明に「得意になる。いい気になって自慢する」という意味が使われるのはなぜでしょうか。
本日は今から約千年前に書かれた『今昔物語集』に見られる伊吹山の三修禅師と天狗にまつわるお話をもとに、〝天狗になる〟という言葉の意味を改(あらた)めて考えてみたいと思います。

【天狗に関するお話】
 今は昔のお話です。伊吹山で修行を積(つ)む三(さん)修(しゅう)禅師(ぜんじ)と呼ばれる聖人(しょうにん)がおりました。この聖人は知識(ちしき)に乏(とぼ)しければ、お経(きょう)も学ばず、ただ念仏(ねんぶつ)を唱え続けることに多くの年月を費(つい)やしていました。
 ある日、聖人は夜遅くに仏前で念仏を唱えていると、どこからともなく「汝(なんじ)の念仏が数多く積(つも)ったならば、明日の未時(ひつじどき)(午後1時から3時頃)に私が汝(なんじ)を迎えに来るだろう。念仏を怠(おこた)ることなく続けなさい。」と声が聞こえてきました。聖人はこの声を聞いて一心不乱に念仏を唱え続けました。
やがて次の日となり、約束の時間になると、西の山より金色に輝く仏様が現れ聖人の顔を照らしました。すると金色の蓮花が現れ、聖人はそれに乗って西の方へ去っていきました。これを見た弟子たちは念仏を唱えてこの出来事を貴(とうと)びました。
数日後、その寺のお坊さんたちは薪(たきぎ)を切るために山の奥に入ると、そこには杉(すぎ)の木がありました。その杉の木の上で叫ぶ者の声が聞こえたので、見上げてみると聖人が木の末(すえ)に縛(しば)り付けられていました。木に登ったお坊さんが聖人の縄(なわ)を解(ほど)こうとすると、聖人は「仏様が今迎えに来るとおっしゃっておる。なぜ、解いて下ろそうとするのか」というのでした。それでもお坊さんが縄を解こうとすると、「仏様、私を殺そうとするものがおります」といって聖人は泣き叫ぶのでした。お坊さんは泣く泣く聖人を木から下ろして連れ帰りました。聖人の姿を見た弟子たちは、聖人を情けなくも気の毒に思い泣き合いました。
聖人は正気を失い、すっかり気が狂って二、三日後に亡くなってしまいました。聖人と称される立場の者であっても、智慧(ちえ)がなければこのように天狗にだまされます。知識に乏しいが故に知らぬ間にだまされるのです。

【善天狗と悪天狗】
 以上がお話の全容となります。
このお話は、聖人が仏様によって極楽に導かれたと思ったが、実は天狗にだまされていたという内容となっております。
『今昔物語集』が記された時代、仏様によって極楽に導かれた場合、導かれた本人にしか導いてくださった仏様を見ることはできないと考えられていました。そのため、聖人の弟子たちが仏様の姿を見ることができたのは天狗にだまされていたからだったということになります。もし聖人に知識があれば、聖人の弟子たちが仏様を目の当たりにしていたことに違和感を覚え、天狗にだまされていることに気づけたかもしれません。よって修行だけではなく、知識をつけることもまた大切なことであるとこのお話は伝えていたのです。
『沙(しゃ)石集(せきしゅう)』という仏教説話集によると、天狗には善天狗と悪天狗がいるそうです。
善天狗は仏教を守り、悪天狗はおごりたかぶり他人の意見を受けつけず、仏教を信じない存在で、あらゆる善い行いを邪魔だてすると『沙石集』は記しています。そのため、先のお話で聖人をだました天狗は悪天狗であったと言えるでしょう。
また、『沙石集』には、どのような修行をしたところで、おごりたかぶる心がある人は天狗の仲間になりやすいことも書かれています。
聖人がおごりたかぶっていたかは不明です。しかし、おごりたかぶることで他人の意見を受けつけない悪天狗のような人間になってしまいます。すると意見を受け付けないことで新しい知識を吸収できず、知識は乏しくなり、『今昔物語集』の聖人のように自分の失敗に気づくことができなくなります。
このような人間のすきをついて天狗は人をだましていたのかもしれません。

【〝天狗になる〟の真意】
さて、ここまでのお話を踏まえると、〝天狗になる〟という言葉は、悪天狗がおごりたかぶる心を持つ存在であったことから「得意になる。いい気になって自慢する」といった意味でつかわれたと考えられます。そのため、おごりたかぶる天狗のような人物になっていることから「鼻高々になる」という表現も使われたのでしょう。
しかし、今回お話した通り、天狗になる(おごりたかぶる)ことで意見を受け入れられない人物になってしまうと、知識に乏しくなり、自分の失敗に気づかないようになります。そのため、〝天狗になる〟はただ自慢するという意味ではなく、自分が見えていない状態であるとも言えます。
 自分が何かに成功しているときは安心感があり、「すごいだろう!」と自慢したくなる気持ちが出てくるかも知れません。しかし、そのような気持ちを起こして天狗の仲間入りをすれば成功という幸せを自ら手放すきっかけになってしまいます。
今後成功したときは自分が天狗になっていないかに注意してください。もし、天狗になっていると感じた場合は本日の法話を思い出していただき、様々な意見を受け入れることを心掛けてみてください。様々な意見を受け入れることで自分の知識につながり、更なる成功をつかむきっかけになるのではないでしょうか。