【はじめに】
三重県多気郡明和町に「斎宮(さいくう)跡(あと)」という日本遺産(国指定史跡)があります。
斎宮跡は「斎(さい)王(おう)」が住んでいた「斎宮(さいくう)」という宮殿があった場所です。斎王は未婚の皇族女性の中から占いによって選ばれます。斎王に選ばれた女性は天皇に代わって伊勢神宮の天照大神に仕えるために斎宮に住み込みました。
斎王を天皇の代わりに置く制度は飛鳥時代(七世紀後半)に始まったと考えられており、京都の賀茂神社でも伊勢の斎王にならって未婚の皇族女性の中から「斎王」を占いで選び、「斎院」に住まわせて賀茂神社のお祭りに参加させました。そのため、斎王は少なくとも伊勢ならびに京都の二箇所に置かれていました。
このように伊勢と京都に斎王がいるため、伊勢の斎王を「斎宮」、京都の斎王を「斎院」と呼び分けることもありました。
さて、平安時代の長編物語『源氏(げんじ)物語(ものがたり)』を見ると、娘の秋好(あきこのむ)斎宮(さいぐう)とともに伊勢より帰ってきた母である六条(ろくじょうの)御息所(みやすんどころ)は斎宮を〝罪深き〟ところと思い尼(あま)さん(女性のお坊さん)になります。また、六条御息所は秋好斎宮に対して、斎宮にいた頃の罪を軽んじることなく功徳(くどく)あることを必ずするようにと述べています。平安時代の物語『狭衣(さごろも)物語(ものがたり)』では「仏さまに背くことが後世のために残念なことです」と斎宮と斎院の生活について記しています。
この『源氏物語』と『狭衣物語』の内容から、平安時代の人々の間に斎宮や斎院での生活は仏さまに背くことであり、罪深きことだという考えがあったようです。
では、なぜ斎宮や斎院で生活することが「仏さまに背く」ことになるのでしょうか。
本日は斎王の生活と仏教の関係についてお話し、平安時代の人々が仏教についてどのように考えていたかをお話したいと思います。
【斎王のお務めと仏教】
斎王と仏教の関係について知るため、はじめに伊勢の斎王のお務めについてお話したいと思います。
平安時代の法律や制度について書かれた『延喜式(えんぎしき)』によると、斎王の主なお務めは、伊勢神宮の三節(さんせつ)祭(さい)(六月と十二月の月次(つきなみ)祭(さい)、十月の神嘗祭(かんなめさい))と呼ばれるお祭りに参加することです。そして、三節祭での斎王の役目は内宮と外宮の内玉垣(うちたまがき)御門に入り礼拝して太(ふと)玉串(たまぐし)
をお奉(まつ)りすることでした。
斎王はこの三節祭に参加するために自らを清める生活を斎宮で送ります。『延喜式』によると、喧嘩や密かに結婚するなど斎宮での生活に相応しくない行動が制約として記されています。しかし、不思議なことに、この制約の中に「修仏」つまり「仏教の行事や教えに関わる」ことも見られるのです。また、「忌(いみ)詞(ことば)」が定められており、「仏」「お経」「僧」などの仏教用語が「病」「血」「墓」などの穢れに関わることばとともにさけられ別のことばに言い代えられています。
このように斎王が生活する斎宮では制約として仏教に関することをさけたので、平安時代の人々はこの生活が仏さまに背くことと考えました。そして、斎王をはじめ斎宮に住む人々は仏教を信仰することができないことから、後世(亡くなった後)の面倒を仏さまに見てもらえないと思い〝罪深き〟ことと考えたと思われます。
【なぜ仏教をさけたのか?】
では、なぜ斎宮で仏教がさけられたのでしょうか。
実は『延喜式』に見られる斎宮の忌詞は、九世紀初頭に内宮のお祭りなどについて記した『皇(こう)大神宮(たいじんぐう)儀式帳(ぎしきちょう)』に見られる忌詞を参考にしたと考えられています。
仏教が日本に渡って以降、神仏(しんぶつ)習合(しゅうごう)といって仏さま(お寺)と神さま(神社)は互いに助け合う関係を築いてきました。当然、伊勢神宮も同様で、伊勢神宮を護るお寺として伊勢大神宮寺がありました。しかし、平安時代に入ると、神仏習合が広く定着する中、伊勢神宮においては仏教をさけるといった矛盾した現象が見られるようになります。
伊勢神宮が仏教を避けた背景には、「道(どう)鏡(きょう)」というお坊さんが天皇の位に就(つ)こうとした事件が考えられます。この道鏡の事件は失敗に終わりましたが、二度とお坊さんをはじめとした外部の者が天皇の位を奪わないようにと皇室と深いかかわりを持つ伊勢神宮を仏教から遠ざけるようになりました。
当然、天皇の代わりに三節祭に参加する斎王もこれにならう必要があります。そのため、斎宮での生活から仏教的なものを除く必要があり、斎王をはじめ斎宮に住む人々は仏教に関わることができなくなってしまったのです。
一方、京都の賀茂神社にご奉仕する斎王の住む斎院はどうかというと、仏教に関する制約が斎宮に比べて少なく、仏教に関する和歌も詠んでいたことから、斎宮ほど厳密(げんみつ)に仏教から遠ざけられていなかったと考えられます。
斎院に仏教色が残った原因について、斎王研究者の長塩智恵さんは、世俗から離れた斎宮に対して、斎院は都(みやこ)にあったことから王朝(貴族)との交流もあり、世俗的な生活が認められたと考えています。
後に京都の斎院、続いて伊勢の斎宮の順番で鎌倉時代頃までに斎王の制度は廃絶しました。しかし、明和町の斎王まつりや京都の葵(あおい)祭(まつり)といったお祭りで斎王が選ばれ、イベントの主役として現代でも斎王が活躍しています。
【おわりに】
以上のように、天皇の位を護るために斎宮と斎院では仏教をさけるといった制約がされるようになりました。このことによって斎王や斎王に付き従った人々は仏教をさけることになり、仏さまに背くことだと考えるようになりました。つまり、死後の幸せを望む人々にとって仏教を信仰できないことが悩みの種となったのです。
しかし、制度によってさけたからといって仏さまがその人々を見限ると私は思えません。仏さまに対して、「何をしたか」だけではなく「何を思うか」ということも信心を計る目安になるのではないでしょうか。
皆様も「何かをする」という行動の価値観ばかりではなく、「何を思うか」という心の価値観も大切にしてください。よいことをしたいと思う心を持ち続ける人を見れば何かをしてあげたいと思うのが仏さまと人の心情ではないでしょうか
三重県多気郡明和町に「斎宮(さいくう)跡(あと)」という日本遺産(国指定史跡)があります。
斎宮跡は「斎(さい)王(おう)」が住んでいた「斎宮(さいくう)」という宮殿があった場所です。斎王は未婚の皇族女性の中から占いによって選ばれます。斎王に選ばれた女性は天皇に代わって伊勢神宮の天照大神に仕えるために斎宮に住み込みました。
斎王を天皇の代わりに置く制度は飛鳥時代(七世紀後半)に始まったと考えられており、京都の賀茂神社でも伊勢の斎王にならって未婚の皇族女性の中から「斎王」を占いで選び、「斎院」に住まわせて賀茂神社のお祭りに参加させました。そのため、斎王は少なくとも伊勢ならびに京都の二箇所に置かれていました。
このように伊勢と京都に斎王がいるため、伊勢の斎王を「斎宮」、京都の斎王を「斎院」と呼び分けることもありました。
さて、平安時代の長編物語『源氏(げんじ)物語(ものがたり)』を見ると、娘の秋好(あきこのむ)斎宮(さいぐう)とともに伊勢より帰ってきた母である六条(ろくじょうの)御息所(みやすんどころ)は斎宮を〝罪深き〟ところと思い尼(あま)さん(女性のお坊さん)になります。また、六条御息所は秋好斎宮に対して、斎宮にいた頃の罪を軽んじることなく功徳(くどく)あることを必ずするようにと述べています。平安時代の物語『狭衣(さごろも)物語(ものがたり)』では「仏さまに背くことが後世のために残念なことです」と斎宮と斎院の生活について記しています。
この『源氏物語』と『狭衣物語』の内容から、平安時代の人々の間に斎宮や斎院での生活は仏さまに背くことであり、罪深きことだという考えがあったようです。
では、なぜ斎宮や斎院で生活することが「仏さまに背く」ことになるのでしょうか。
本日は斎王の生活と仏教の関係についてお話し、平安時代の人々が仏教についてどのように考えていたかをお話したいと思います。
【斎王のお務めと仏教】
斎王と仏教の関係について知るため、はじめに伊勢の斎王のお務めについてお話したいと思います。
平安時代の法律や制度について書かれた『延喜式(えんぎしき)』によると、斎王の主なお務めは、伊勢神宮の三節(さんせつ)祭(さい)(六月と十二月の月次(つきなみ)祭(さい)、十月の神嘗祭(かんなめさい))と呼ばれるお祭りに参加することです。そして、三節祭での斎王の役目は内宮と外宮の内玉垣(うちたまがき)御門に入り礼拝して太(ふと)玉串(たまぐし)
をお奉(まつ)りすることでした。
斎王はこの三節祭に参加するために自らを清める生活を斎宮で送ります。『延喜式』によると、喧嘩や密かに結婚するなど斎宮での生活に相応しくない行動が制約として記されています。しかし、不思議なことに、この制約の中に「修仏」つまり「仏教の行事や教えに関わる」ことも見られるのです。また、「忌(いみ)詞(ことば)」が定められており、「仏」「お経」「僧」などの仏教用語が「病」「血」「墓」などの穢れに関わることばとともにさけられ別のことばに言い代えられています。
このように斎王が生活する斎宮では制約として仏教に関することをさけたので、平安時代の人々はこの生活が仏さまに背くことと考えました。そして、斎王をはじめ斎宮に住む人々は仏教を信仰することができないことから、後世(亡くなった後)の面倒を仏さまに見てもらえないと思い〝罪深き〟ことと考えたと思われます。
【なぜ仏教をさけたのか?】
では、なぜ斎宮で仏教がさけられたのでしょうか。
実は『延喜式』に見られる斎宮の忌詞は、九世紀初頭に内宮のお祭りなどについて記した『皇(こう)大神宮(たいじんぐう)儀式帳(ぎしきちょう)』に見られる忌詞を参考にしたと考えられています。
仏教が日本に渡って以降、神仏(しんぶつ)習合(しゅうごう)といって仏さま(お寺)と神さま(神社)は互いに助け合う関係を築いてきました。当然、伊勢神宮も同様で、伊勢神宮を護るお寺として伊勢大神宮寺がありました。しかし、平安時代に入ると、神仏習合が広く定着する中、伊勢神宮においては仏教をさけるといった矛盾した現象が見られるようになります。
伊勢神宮が仏教を避けた背景には、「道(どう)鏡(きょう)」というお坊さんが天皇の位に就(つ)こうとした事件が考えられます。この道鏡の事件は失敗に終わりましたが、二度とお坊さんをはじめとした外部の者が天皇の位を奪わないようにと皇室と深いかかわりを持つ伊勢神宮を仏教から遠ざけるようになりました。
当然、天皇の代わりに三節祭に参加する斎王もこれにならう必要があります。そのため、斎宮での生活から仏教的なものを除く必要があり、斎王をはじめ斎宮に住む人々は仏教に関わることができなくなってしまったのです。
一方、京都の賀茂神社にご奉仕する斎王の住む斎院はどうかというと、仏教に関する制約が斎宮に比べて少なく、仏教に関する和歌も詠んでいたことから、斎宮ほど厳密(げんみつ)に仏教から遠ざけられていなかったと考えられます。
斎院に仏教色が残った原因について、斎王研究者の長塩智恵さんは、世俗から離れた斎宮に対して、斎院は都(みやこ)にあったことから王朝(貴族)との交流もあり、世俗的な生活が認められたと考えています。
後に京都の斎院、続いて伊勢の斎宮の順番で鎌倉時代頃までに斎王の制度は廃絶しました。しかし、明和町の斎王まつりや京都の葵(あおい)祭(まつり)といったお祭りで斎王が選ばれ、イベントの主役として現代でも斎王が活躍しています。
【おわりに】
以上のように、天皇の位を護るために斎宮と斎院では仏教をさけるといった制約がされるようになりました。このことによって斎王や斎王に付き従った人々は仏教をさけることになり、仏さまに背くことだと考えるようになりました。つまり、死後の幸せを望む人々にとって仏教を信仰できないことが悩みの種となったのです。
しかし、制度によってさけたからといって仏さまがその人々を見限ると私は思えません。仏さまに対して、「何をしたか」だけではなく「何を思うか」ということも信心を計る目安になるのではないでしょうか。
皆様も「何かをする」という行動の価値観ばかりではなく、「何を思うか」という心の価値観も大切にしてください。よいことをしたいと思う心を持ち続ける人を見れば何かをしてあげたいと思うのが仏さまと人の心情ではないでしょうか





